20170507

敷かれたレールに乗らない女の子

この時期はどういうひとがタイプ~?という話題を頻繁に通る僕はそれにすかさず敷かれたレールに乗らない女の子と答えるようにしている

昨日、友人とお酒を飲んでるとき、「ただ普通の害のない人間はAIで代替できる」という話になった 僕がIT業界をそれなりに志望する理由も、そういう代替可能な人間を淘汰させたいが為かもしれないと思った

じゃあ何故僕は普通の人間が嫌いなのか

普通の人間とは、一般的感性から一般的選択を繰り返す人間だと定義しよう するとやはり敷かれたレールに歩みを進める人間がそれに当たるだろう

私がそういう女の子を苦手とするのは、人間的厚み(=自分に対する刺激)に欠けるからだと思う 敷かれたレールを歩まなかった女の子には、敷かれたレールを歩まなかった理由があるはずだ きっと彼女には、敷かれたレールに疑いなく乗れるひととは違う何かがある 顔?肉体?家庭環境? 自分では可変不可な何かに悩み、それを変えられない弱さを知った そして、敷かれたレールを歩んでも不可変な壁が君を阻む未来に気付く

そうした挫折は、ひとを強くする 他人とは違う目的地にゴールしなければ、私の人生を完結されることができぬ 不可変な壁が無い人間と同じように人生を完結させるためには、何か違う土俵で戦わねばならない

 

じゃあ何か違う土俵ってなに? 私のどこが他人に勝る魅力なの?

 

彼女がどんな道のりを経てここにいるのかは知らない 不器用にレールを敷いては他人から非難され、時には泣きながら撤去したり、時にはそのまま強行突破してきたのかもしれない とんでもない迂回をして、その非効率に嘆いてレールを敷くことをやめたことすらあるかもしれない

 

世間の画一的な価値基準では勝てないと悟った女の子が、路頭に迷って社会でもがき苦しんで、その末に自分の魅力や考え方に気付く 所与の肉体的価値(顔、身体)に甘んじて、周囲に期待される振る舞いをするだけで人生を完結されられるような人間よりも、私は敷かれたレールに乗れなかった女の子を愛したい なぜなら彼女らには彼女らが傷付きながら築いた彼女らの哲学があるから

 

次は君が敷かれたレールを走る鈍行列車に逆襲する番だ 決められた時間に到着して決められた時間に出発する鈍行列車 その役目はひとの期待にいつでも期待通りに応えるだけ それ以上も以下でもない だから君は、自分の生み出したルートとダイヤに従って、敷かれたレールを歩むだけでは到達できない地点に向かって走り出すんだ 君らが次の時代を握るんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

一人っ子で親から過剰な干渉を受けて育った。こういう教育は、自分(親)にいつでも従順であるという理想的な娘、息子を作り上げたい親がするものだ。

 

だから、僕らが反発すると、親は 我儘だ と言ってそれを抑圧する。それは単なる我儘ではなく、息子のそれは"私(親)にとって"我儘なのだ。息子からすれば、それは主張だ。自由意志に従ったひとつの主体が発する、親の押しつけに対する悲鳴に近い抵抗としての発話。

 

こうした抵抗は、親に対してだけでなく、学校の教育や社会の常識に対しても起こりうる。非行や犯罪は

低賃金はひとを不幸にする

カオスな古着、無名ブランドのバッグ、

爺さんが長年乗ったワンオーナーのボロ車、

気に入った髪型

 

ただ自分のために、自分が好きなものを

手にしていたいだけなのに

 

何ひとつ手に入らない

今やそれら全てを捨てても、生活が間に合わない

 

みんなの言う通りにして、せっかく早稲田まで入ったのに、

その答えは、こんな人生じゃなかったはずでしょ?

 

ある日、父親は確かに言った、

「この両親にしては、お前は少し出来過ぎた」

 

じゃあどうしたらいいの?かみさま

早く答えを頂戴ね。

 

東京好きを笑うひとは、グロテスクで貪欲で、愚かな資本主義者だ

僕には名古屋の生活がとてもつらい。

この街は、無いものが多すぎる。

早く東京に帰りたい。

(筆者はちなみに、さらに田舎の工場地帯で生活しているのだが。爆笑。)

東京は僕にとってなんでもある街であり、

また無いものがない街として映っている。

それは僕の中で、”街にあるはずのもの”という概念が東京で形成されており、東京にあるものは必ず他の地域にも”あるはず”だと、頭が認識してしまっているからだ。

脳に一旦”街に必ずあるもの”と認識された諸々たちは、大学4年間を通じてほとんど慣習として、”必ずある”という絶対性を反復して学習させられてきた。それはそこに住んでいれば、確実に繰り返される宿命であり、いわばそれが街の基準として当然のごとくに認識される。もちろんこれは、愛知にも、どんな田舎にも、都心にもなり得る。

ここで、愛知がつらい理由を考える。

とりあえず、「東京にあって愛知に無いもの」という、東京-愛知比較におけるギャップの抽出を試みてみた。僕の癖として、物事を肉体と精神に区別して考えるところがあるので、今回も物質・精神の対比を用いてみる。

まず、物質的な観点からは、あらゆるモノが量的・質的に異なる。これは首都と地方都市の格差であり、当然ではある。しかし僕の生活スタイルからすると、物質的な観点からはほとんどマイナス要因となっていない。なぜなら、生活に際するモノのほとんどはAmazonや他ECで調達しており、現物を踏まえた購買活動を行なっていないからである。

一方、僕には精神的観点から、愛知は東京に対して圧倒的に劣る。街の自分に対する精神充足の文脈において、受容的側面と能動的側面からこれを考えてみた。街から受容できうる精神的充足について(これは感覚や思想に基づく各人の主観的要素が強く現れてしまうところであるが)、東京では、第1に個人的な諸々の思い出があらゆる場所に残されていて、それらの追憶が自己同一性や承認を高めてくれる。さらに、第2としては、僕は自転車乗りであるので、時間帯や地域の違いによって様々な顔を見せてくれる東京の優しさ、面白さが日々の退屈を紛らわせてくれることがある。一方、愛知には微かな思い出もあまりなく、ほとんどが住宅で占められる雑多性の少ない街並みは、自転車乗りを退屈にさせる。つまりは趣味の喪失。

また、能動的に獲得することができる精神的充足について考えてみる。東京では多種多様な生き方が肯定されている(というよりは、あらゆるライフスタイルが氾濫するために、もはや社会がエキセントリックな個々人を否定する力を持っていない)ために、文化が非常にきめ細かい。それによって、自己の関心を探求するためのフィールド・人的資源が多く確保されている。文化のきめ細やかさとは、文化がいかにミクロなサイズの集合体として規定されているかであり、「文化」という言葉に内包される文化的なモノの多種多様さを意味する。

文化の形成過程を考えると、文化のきめ細やかさがその街の持つ社会的許容性と比例することがわかる。 文化が花開く過程では、文化開拓の先駆者たちが開いた文化に多くの追従者が付き、その文化が商取引の材料となることで公となっていく。文化がカネと密接な癒着を呈するのは古くからそうであり、日本でもヨーロッパでも、元は貴族の占有物だった。そこから経済開放された現代資本主義社会では、社会に対するひとりの金持ちが持つカネの占有率が大幅に希薄化されたことで、ひとりから多くのカネを巻き上げるよりも、比較的少額を多くの人から投じてもらうことで生命維持を行なっていくようになる。こうした意味で、文化が花開くための必須条件としては、文化の追従者の多さが重要となるのである。

これらを踏まえれば、文化のきめ細やかさは街の社会的許容性と比例し、またそれを言い換えれば、社会のライフスタイルに対する拒否権の強さと反比例することになる。文化の追従者を許すことは、社会のライフスタイルに対する拒否権が弱いことを前提にしており、街でひとが能動的精神充足を求める際には、フィールド・人的資源に先行する文化のきめ細やかさの具合、ひいては街の多様性に対する許容が重要となるのである。

こうしたなかで、東京には文化のフィールドおよび人材が比較的多く展開されていると思われるのである。

一方、愛知の社会性の画一さはなんたるモノであろうか。いくつかの進学校に通い、名大か名工大へゆき、トヨタ系に入ることが親孝行、さらにそれから早くに結婚し、一軒家で家族団欒しつつファミリーカーを買う。この退屈さたるや、もはや僕が生きる必要などない。

名古屋は何もない街。田舎は何もない街。

それだけでなく、僕が生きる必要のない街…

東京は確かになんでもある街だが、 それは物質的にではなく、精神的意味合いからである。

この街は僕をわくわくさせない。東京の顔をもっと見ていたい。あらゆる文化の中で、退屈な私生活を紛らわせていくしか、僕は生きることができないと思う。

感情の起伏が最高点に達し、めんどくさくなってしまい、捨て台詞で決着となった。あなたなら、東京好きをどう思う?

僕は馬鹿にするなよ、と思う。

東京好きを笑うあなたは、生活のたのしみを物質にしか見出していない、グロテスクで貪欲で、とても愚かな資本主義者だ

「死にたいとは思わないが、どうしても生きたいと思えない」

10月10日「死にたいとは思わないが、どうしても生きたいと思えない」

 

無意識のまま涙が止まらなくなってしまった。

肉体と精神の離別。

 

僕は一体、どこへ行ってしまうのだろう。

肉体と精神の双方が異なる方向を向いている、という未知な感覚。

 

そして、忽然と生まれる疑問。

 

ひとはどうやって、自分の人生の無意味性を克服するのだろうか。

「ひとの一生が何か意味を持つのか。」

 

生きることに意味がある、という一種の諦念的な通説に納得するような人間なら、

そもそもこの問いは生じない。

 

この世界で生の意味を解釈しようとするとき、

”社会秩序の維持および更なる助長のため”という回答のほか、

妥当な理解を得ることは可能であろうか。

 

僕はわからない。

何もわからないことだけが、暗闇のなかで顔を出す。

 

いまの僕を活かすのは、

退屈な日常を彩らせた、ひとつひとつの小さい想い出たち。

その瞬間には、それが幸福だとは気づくことができなかったような、

かけらたちを集めて。

 

これから、そうした甘美な瞬間を、いくつ体験することができようか。

 

僕は甘美な瞬間に、生かされている。

決して、そのために生きているのではない。

こうした想い出たちを抱えて、そう簡単に死ねないのだ。

 

僕は、自殺した人間に、幸せかどうかを聞いてみたい。

明らかな後出しジャンケンではあるけれど、

おそらくみんな幸せと言うことだろう。

 

僕が仮に自殺をし、このインタニューを受けることになっていたらと考えた。

でも、幸せだと言うことはできないと思う。僕はきっと、このように答える。

 

"いま幸せと言うことはないが、僕の生きた23年間は幸せだった。"

 

 

想い出たちを頼りに生きる僕の人生は、全て過去形なのだ。

これからも、きっとたくさんの甘美な瞬間を経験するはずだ。

でも、そのためだけに、生きたいとは思わない。

もう十分すぎるほど、多くの財産を持ち合わせているから。

 

だが、今はその財産のために、死ぬことが困難になってしまっている。

 

救済のない生。道しるべのないまま、さまよう恐怖。

この生に、いつか光が見える時が果たして来るのだろうか。

 

今はただ、わからないことだけがひたすらにわかっているのだ。

もうダメだ、と思うとき

朝8時。生憎の曇天。

 

 

僕はふと悲しい気持ちになった。

はてなブログとは、優れたコンテンツだ。

清潔感あるデザインの箱の中に、

ぎっしりと、日常に生きることの陰鬱さ、やるせなさが詰まっている。

 

でも僕は...

こうしたブログに書くべき陰鬱さを、ひとつも持ち合わせていない。

僕の持つそれと、コンテンツを残す者のそれは、

同様の陰鬱さだとしても、その色彩は少しだけ異なっている。

 

私という人物は、

思想の実践こそが自身に与えられた生の使命だと考え得るような高慢さを持つ一方、

結局はその適当さから自分の生活に飽き飽きしてしまうような、

単なる優柔不断な性格の持ち主なのだが、

 

こうした日常と密接なコンテンツに自分の考えを書き殴れる人間は、

生への執着がきちんとあって、目の前をドラスティックに変えたいと、

そう考えることのできる希望ある者なのだと思う。

 

 

でも僕は... もう一度、今度は觀念して考える。

 

 

僕がこれだけの思想を持ち、その体現にこだわり、

この実践が正義だと信じているのにも関わらず、

周囲の期待するような文章を記すことができかねるのは 、

あまりにも僕が現実の、日常の生活に対して無頓着すぎるからだと思う。

 

日常に対する執着が、

コンテンツ生成の原動であるとすれば...

 

 

もうダメだ、と思うとき。

 

 

これだけ強い思想を持ちながら、

それを生活に持ち込むことができない、

持ち込む原動力が実は更々ないのだということを、

痛感してしまうとき。

 

僕はきっと、世の中で健康に生きていくことが難しい人たちが、

つらくなった時に逃げ込める文章をこの世に生み出してみたかったのだ。

しかし自分には、そうした能力がないことを知っていた。

 

唯一僕を見捨てなかった文章たちが、

この裏切りを高らかに宣言する瞬間を、僕は耐えきれなかった。

 

全て知っていた。

文章と関わる一切の仕事から距離を置いたのは、

これがその理由の全てだ。

 

もう、僕の人生は取り返しがつかないのかもしれない。

 

 

 

 

古本屋での奇跡

仕事をそのうちにやめようと思う。

 

今日、仕事を休んだ。台風なのでしょうがない。

一般的感覚で言えば、しょうがなくないのだろうけど。

 

こうして意図的な形で”思わぬ休日”を得た私は、

「人相学基礎」なる本を1,460円で買った。

 

つい僕は、こういった

刹那的な出会いに感激してしまう質なのだ。

 

こうした奇跡を、わざわざ「奇跡」と有難がって読む本は、

僕の中で奇跡として扱われる。

 

そもそも僕は、奇跡を愛すべきもの、と思う。

ある事を奇跡と扱う事で、無条件にそれを有難がってしまう。

馬鹿げているが、こうした瞬間を愛して生きている。

 

僕の人生は瞬間の重なりでできている。

毎日は、これ以上ないほどに退屈だ。

でも時々、退屈な時間に水を差すような瞬間がある。

こうした瞬間の思い出を頼りに、

これからも生きていくことになるだろう。

 

古本屋にいくときには必ず、

神様、君は今日の僕に何を見せてくれる?

と空想する。

 

あなたが僕の目の前に差し出す一冊は、

僕に新たな瞬間を届けてくれるはずだ。

そんな積み重ねが、僕の人生に彩りを与えていく。

 

モノクロの僕の世界に、20000色の色彩を一瞬にして加えた

あの時の君のようにね。