東京好きを笑うひとは、グロテスクで貪欲で、愚かな資本主義者だ

僕には名古屋の生活がとてもつらい。

この街は、無いものが多すぎる。

早く東京に帰りたい。

(筆者はちなみに、さらに田舎の工場地帯で生活しているのだが。爆笑。)

東京は僕にとってなんでもある街であり、

また無いものがない街として映っている。

それは僕の中で、”街にあるはずのもの”という概念が東京で形成されており、東京にあるものは必ず他の地域にも”あるはず”だと、頭が認識してしまっているからだ。

脳に一旦”街に必ずあるもの”と認識された諸々たちは、大学4年間を通じてほとんど慣習として、”必ずある”という絶対性を反復して学習させられてきた。それはそこに住んでいれば、確実に繰り返される宿命であり、いわばそれが街の基準として当然のごとくに認識される。もちろんこれは、愛知にも、どんな田舎にも、都心にもなり得る。

ここで、愛知がつらい理由を考える。

とりあえず、「東京にあって愛知に無いもの」という、東京-愛知比較におけるギャップの抽出を試みてみた。僕の癖として、物事を肉体と精神に区別して考えるところがあるので、今回も物質・精神の対比を用いてみる。

まず、物質的な観点からは、あらゆるモノが量的・質的に異なる。これは首都と地方都市の格差であり、当然ではある。しかし僕の生活スタイルからすると、物質的な観点からはほとんどマイナス要因となっていない。なぜなら、生活に際するモノのほとんどはAmazonや他ECで調達しており、現物を踏まえた購買活動を行なっていないからである。

一方、僕には精神的観点から、愛知は東京に対して圧倒的に劣る。街の自分に対する精神充足の文脈において、受容的側面と能動的側面からこれを考えてみた。街から受容できうる精神的充足について(これは感覚や思想に基づく各人の主観的要素が強く現れてしまうところであるが)、東京では、第1に個人的な諸々の思い出があらゆる場所に残されていて、それらの追憶が自己同一性や承認を高めてくれる。さらに、第2としては、僕は自転車乗りであるので、時間帯や地域の違いによって様々な顔を見せてくれる東京の優しさ、面白さが日々の退屈を紛らわせてくれることがある。一方、愛知には微かな思い出もあまりなく、ほとんどが住宅で占められる雑多性の少ない街並みは、自転車乗りを退屈にさせる。つまりは趣味の喪失。

また、能動的に獲得することができる精神的充足について考えてみる。東京では多種多様な生き方が肯定されている(というよりは、あらゆるライフスタイルが氾濫するために、もはや社会がエキセントリックな個々人を否定する力を持っていない)ために、文化が非常にきめ細かい。それによって、自己の関心を探求するためのフィールド・人的資源が多く確保されている。文化のきめ細やかさとは、文化がいかにミクロなサイズの集合体として規定されているかであり、「文化」という言葉に内包される文化的なモノの多種多様さを意味する。

文化の形成過程を考えると、文化のきめ細やかさがその街の持つ社会的許容性と比例することがわかる。 文化が花開く過程では、文化開拓の先駆者たちが開いた文化に多くの追従者が付き、その文化が商取引の材料となることで公となっていく。文化がカネと密接な癒着を呈するのは古くからそうであり、日本でもヨーロッパでも、元は貴族の占有物だった。そこから経済開放された現代資本主義社会では、社会に対するひとりの金持ちが持つカネの占有率が大幅に希薄化されたことで、ひとりから多くのカネを巻き上げるよりも、比較的少額を多くの人から投じてもらうことで生命維持を行なっていくようになる。こうした意味で、文化が花開くための必須条件としては、文化の追従者の多さが重要となるのである。

これらを踏まえれば、文化のきめ細やかさは街の社会的許容性と比例し、またそれを言い換えれば、社会のライフスタイルに対する拒否権の強さと反比例することになる。文化の追従者を許すことは、社会のライフスタイルに対する拒否権が弱いことを前提にしており、街でひとが能動的精神充足を求める際には、フィールド・人的資源に先行する文化のきめ細やかさの具合、ひいては街の多様性に対する許容が重要となるのである。

こうしたなかで、東京には文化のフィールドおよび人材が比較的多く展開されていると思われるのである。

一方、愛知の社会性の画一さはなんたるモノであろうか。いくつかの進学校に通い、名大か名工大へゆき、トヨタ系に入ることが親孝行、さらにそれから早くに結婚し、一軒家で家族団欒しつつファミリーカーを買う。この退屈さたるや、もはや僕が生きる必要などない。

名古屋は何もない街。田舎は何もない街。

それだけでなく、僕が生きる必要のない街…

東京は確かになんでもある街だが、 それは物質的にではなく、精神的意味合いからである。

この街は僕をわくわくさせない。東京の顔をもっと見ていたい。あらゆる文化の中で、退屈な私生活を紛らわせていくしか、僕は生きることができないと思う。

感情の起伏が最高点に達し、めんどくさくなってしまい、捨て台詞で決着となった。あなたなら、東京好きをどう思う?

僕は馬鹿にするなよ、と思う。

東京好きを笑うあなたは、生活のたのしみを物質にしか見出していない、グロテスクで貪欲で、とても愚かな資本主義者だ